昭和47年12月11日  朝の御理解 ●④ 大坪かよこ

御理解第97節
 神を拝む者は、拍手して神前に向こへうてからは、たとえ槍先で突かれても後ろへ振り向くことはならぬぞ。物音や物声を聞くようでは、神に一心は届かぬ。




 神様へ一心を、いわゆる一心不乱という、ね、心を乱さない、一心にという、なかなかこの一心不乱が出ません。
信心はもう、私は金光様一本だと、もう金光様だけだと、なるほどそれも一心のようですけれども、ただそれだけでは、いかん。
誰が何というても、金光様信じる、それは、そんなんとはなしにですね、そういうひとつの思い込みを持って、信心をしておる人たちがおかげを受けることは受けますね。
けれどもそれが、神様の心をね、貫くといったようなね、そういうおかげにはならん。
ま、信心のま、いうなら厳しさでございましょうけれども。
けれどもやはり、何かそこに一つの神願が立てられる、これはどうでも、どうでもおかげを頂かなければという、神願が立てられる。
その神願を立てるというても、神願を立てるというだけでもいけん。
その神願が、いうなら神の機感に叶うたこと、神様の心にかのうた、例えば神願を立てて、そして一心にそれを貫かしてもらう。
まず、自分の立てておる一心というのを、神願というものが、これなら神様が受けてくださるという、確信をもってでなかららんと、いけないですね。
●④ 例えば私の信心を思うてみますのに、なるほど小さいときから、金光様のご信心で育てられておりますから、もう金光様の信心以外の信心をしようなどとは、夢おもうてはいないわけですから、やはり一心です。
けれどもその貫くというほどしのこと、またはその焦点が間違っていなかったかというと、やはり、長年の信心を振り返ってみると、間違っておったように思う。
子供の時分から、奇跡的なおかげを頂いて、ない命を何回も助けて頂いとりますから、神様金光様ということは、ま、一心である。
けれども段々、なら長ずるに従って、商売で身を立てようということになりましたから、あの、商売でおかげを頂こう、そして商売で良い商売になり、大きな商売にならしてもろうて、神様に喜んで頂くようなご用をさして頂こうと。
エーいかにも、それは一通り筋は立っているようでありましたけれども、考えてみますと、ね、ほんとに教えを中心にしてそういう考え方をしていなかったということ。
ただ沢山儲かって、沢山どんどんお供えでもできるようなおかげで神様の喜んでくださるような思い違いをしておったということです。
ね、なら、教えに基いて、商売をさしてもらおう、ね、そしていよいよご用のできれる、まあ、ひとかどの商人にお取立てを頂いて、おかげを頂こうというようなものがなかったということ。
神様に一心が、私は届いたと自分ながら思わして頂くのは、そういう段々考え方からです、ほんとに親に安心してもらいたい、親に喜んでもらいたい、という一念が一心になっていったということは、私は私の焦点が間違っていなかったということを、今にして思うのです。
ね、例えばそのおかげを頂くことのためには、修行はいといませんと、ね、もう当時の大変終戦後の逼迫した時代に、例えば食料でも遅配欠配といった時代というて、闇の食糧でもどんどん買えれる力はない。
もうほんとに親に喜んでもらいたいとか、親孝行したいというても、それこそお粥さんがすすりかねるような状態であってはです、ね、もうほんとにこのまま親に心配をかけどうしで、しまえなければならないかと思うほどしであった。
ね、そこで私がその一心であったと思うことはですね、その親が例えばなくなりましたらそのあくる日から、いうなら、元の貧乏になっても良いから、それまでにひとつ分限者にならしてください、といったような願いであったことですね。
ね、親に孝行したい、親に喜んでもらいたい、親に安心してもらいたい、ね、いうなら、今から考えて見ますと、ははあ、命を懸けるということはこういうことだなとこう思うた。
商売が繁盛のおかげを頂いてです、そしてなら親に、ね、衣食住、事足るようなことのない、安心して食べられる、安心して生活がでけられるところまでです、おかげを頂かせて下さいと。
両親がおる間、もしそういう無理なお願いがです、聞き届けていただくならば、ね、両親が亡くなった、もうその翌日からたとえていうなら、店が潰れてしまうといったようなことになりましてもかまわないということになりますから、こりゃやっぱ一心だったろうと思うですね。
ほんとにそれを思いましたです、私は、ね、私は以前思っとりました。ほんとに段々こうして椛目、合楽を通して人が助かるようになりおかげを頂いて、それこそ衣食住に何不自由のないほどしのおかげを頂かしてもろうて、いよいよ両親は健康で、長生きのおかげを頂いて今日まで、ほんとにおかげを頂いておるがです。
ひよっとして両親がね、あの亡くなったら、ほんとに私の願いどうりにそれこそあっという間に、また、一切のおかげが消えてなくなるのではなかろうかと不安に思うくらいに一心に思うとりましたです。
そのくらいにその頃は願っとりますから、もうあくる日からつぶれてもいいとこういう、もちろん、・・?商売ですけど。ですから段々こうして教会の形をとらせてもろうて、人が助かるようになって、一切の上に人間の幸せというのは、こういうことであろうかと思われるくらいに、なら、親子の上にもおかげを頂いて、そしてその肝心要の願いの焦点であった親がです、ね、亡くなったらほんとに、ね、それこそ忽然として頂けたおかげであるから、忽然として、消えるかもしれない、そういう願いを立てているんだもん、というですね、これは不安というわけでもないけれども、そういうものを感じた時代がありました。
今は感じません。なぜって私の親の焦点というものが完璧に変わってしまっているからです。
親の焦点、親ていうその焦点が、変わってしまっておるからです。
ね、言うなら天地金乃神様の、忠臣とでも申しましょうか、ね、に対する親孝行がしたいの一念に変わってきたからです。
ね、それはもう誰が何というても、それこそ後ろから槍で突かれるような事があってもです、ね、物音、人がとやこういうようなことを言うてもです、そういうことなんかは、全然問題にしませんでしたですね。難儀な問題が起きてくる、ね、また人に物音が聞こえてくる、いわばいろんな噂が聞こえてくる。
ね、それはほんとに聞くに耐えないようなことも聞こえてくる、またはへとへとするような事柄にも出会わせてもらいましたけれども、そこを一心に貫かせていただいたということが、ね、その貫かせていただくうちに、今申しますように、自分の心の焦点というものを同じ親は親でも、ね、もっと絶対の親というかね、その親に対するところの、言うなら神恩報謝の心というものが強くなってきた。
この親のおかげで今日まであるんだというところから、その親のために命をはって親孝行したいと思うたように、信心を分からしていただくように段々なって、天地の親神様のことが少し分からしてもらう、神様の心が分からしてもらうようにならせて頂いたら、その神様に一心を向けるようになった。
もちろんそこには物事を聞くだんではありませんでしたし、たとえ槍先で突かれるような事があっても、振り向くようなことをせんで一心に貫いてきたと、自分で思います。
昨日、汽車の中で、ご本部から帰りの、どなたかの本か知りませんでしたけれども、週刊誌が、あった。まあ何とはなしにこうやってばらばらめくって見せて頂いておりましたら、あの養老の滝というあのお店をしておられて、全国に何十というそのチエーン店がある。この頃から、二十億万円もかけて、家を建てられたち。
目が悪いから読まれません。ばらばら見て、ほう素晴らしい。名前が木下藤吉郎ちゅう。それはもちろん木下は元から木下でしょうけれど、藤吉郎ちゅうと、のは改名されたようです。ね、そいで私はそれを見ながら、こげん請け出してから、なし、木の、羽柴筑前守秀吉ですかね、あの木下籐吉郎は、次に、秀吉ちゅう、木下秀吉ちなんで変えなさらんだろうかと私は思うて、横に高橋さんがおられましたから聞きましたら、やっぱりですね、みんながそう言うそうです。せっかく籐吉郎ち名前を変えたなら、あーたもうこれだけ人生を極めるようになられたんだから、秀吉ち、なし改名しなさらんですかという人があるらしいです。
私はそれを直感したんです。ところがその人が言うておることが、素晴らしいと思ったんです。
ね、木下籐吉、木下籐吉郎というのは、いつもまだ今中だということです。教祖の言葉を借りると、まだこれから何ぼでも成功ができるち。
ね、あの人が関白秀吉ということになったらもう、それこそお終いじゃったじゃないかと。それこそ亡くなる時にはそれこそ、夢のまた夢、というような哀れな状態ではなかったかと、一生がまるきり夢のようなことであった。
随分働きもした、随分成功し、立身出世も、これ以上の立身出世もないうというほどしのことにもなったけれども、それはもう夢のようであった。
ね、そのために自分の晩年にでけた子供を跡継ぎにするために、自分の子供分にしてあった秀次ですかね、仲をああいうような壊し方をするような結果になったじゃないか、ね、だから私はどこまでも籐吉郎で行くんだというようなね、やはり成功する人は考え方が違うと思います。
ね、もう徹底したその商売道に、あの、ま、この人独特の商売道に徹底した。
それがあたった。宗教もいろいろした、天理教もした、キリスト教もした、ね、それから創価学会にも入った。もう創価学会では幹部のよかとこだったけれども、現在ではもう幹部と意見が合わずに、ただ自分の相手にするのは、日蓮上人様だけだと。
だから創価学会もまあ脱退した、と言ったようなことが書いてあるところを少し、高橋さんに読んで頂いたんです。
ね、とにかく一心を例えば貫くと言うてもです、ね、本当なことや、本当なことへとその人の考え方が変わって行ってます。
ね、とにかく二十億万円からの家ちゅうとどんな家かというと、もう純金の家だそうです。柱なんかは、金の延べ板で張ってあるちいう。庭にはもうあの菊花石なんかがもう、ただ普通の石をごろごろ転がしておいてあるように庭にいっぱい、飾ると言うんじゃない、こうやって置いてある。
なかなか変わった、ね、手形と言うものは、決して貰うう物ではなくて、えー、受けるものではないか、そしてなんとかゆうったですね、というように自分に都合のよかことだけした考えていない。
買うときには手形で買うけれど、今度は売るときには手形では絶対売らない。
前金でなからなければ売らない、という生き方らしい。
ね、それに、いわばそういう根性に、徹して一心を貫いて、ね、だから、それが果たしてなら、子に孫に伝わるかどうかということはもう疑問ですけれどもです、やはり一心を貫くと言うことは、そういうことだと思う、ね。
信心をさせて頂いておりますとね、やはり迷いが起こってまいりましたり、もう自分でむつかしかろかと思うようなこともあります。
けれども私どもはどこまでも、焦点は教祖生神金光大神ですから、ね、教祖生神金光大神のいうならば、その生きられ方というものを、いよいよ自分の生き方の上に頂いていくと言うことが、教えを基にした一心ということになるのじゃないかと思います。
ね、ですからもうこれは絶対なものです。
なら、私の過去の信心は、そういうひとつの、ね、商売に、でおかげを頂いて、お役に立つというようなことだけに焦点が置いてあったのですけども、教祖のみ教えを基にしてと言うことではなかったと思う。
ね、だから、教祖様のみ教え、いわゆる、教祖様の生き、御生きられ方ということ、最近言われますが、生きられ方というものをです、自分達の生き調子の上に頂いて、なるほどこういう考え方、こういうあり方では、おかげにならん、しかも、一心を貫かないで、おかげのいただけるはずはない、というところを極めていきながらです、おかげを頂いていかなければならん。
神を拝むものは、もちろんこれは、ご祈念をさしてもらうと言うことでございましょうけれど、ひとたび拍手を打って、ご神前に向こうたら、ね、例え後ろから槍先で突かれるようなことがあっても振り向いてはならない。
というほどしの、やはり祈念力というものが、でけてこなければならんということでしょうけれど、これは神を拝むものはということは、信心をさせて頂くものはということになるのと。
ひとつの教えをね、本気で行じさせて頂く上には、障害もあります、または、スランプの状態のときもあります。
だから、そういう時を、むしろ大事にすると言う生き方をです、いよいよ身に付けていかなければいけん。
ね、そこでこれは絶対間違いがない、ここに焦点を置けばと、というものをです、私どもが分からして頂いたなら、もうその一言でも良いから、それを徹してみる修行を、思い立たなければいけない。
ね、最近言われておりますなら、五項目のうちの一つでもよい、ね、家庭がどうも円満に行かない、ふんなら家庭の円満を願わなければならなん。どうでも、家庭中の者が、ただ波風が立たんというだけでなくて、拝み合うていくほどしの家庭になりたいと願うならばです、その代わりに、人を責めるようなことは決して致しません。
責めねばおられない様な事に直面してもです、一心を貫かせていただかなければ、私はおかげにならん。
しかもこれは人間としてその家庭の円満を願うということは、もう、ほんとにこれが真実の願いでないということはない。本との願いなんだ。
もう私どもが心から願わしてもらう願いなのですから、そのことこと一言でもです、私は貫かなければいけん。
最近は人を、神様がみ教えに責めるな、責めるなと言われるから、ね、責めたり責めなかったりと言ったようなことではなくて、ね、あ、また失敗したと言うようなことではなくて、それこそ貫かなければいけない、と私は思うです。
ね、例えば、不健康で困っておる人たちはです、本気で、私は、ね、健康のことを願、体の丈夫を願わなければならない。ね、願うからには、もう絶対、いうならば、大酒大食的なことは、いわゆる体に障るような頂方はもうしないと決めたらです、もうそれは貫かなければいけない。
ね、ほんとに子孫繁盛を願うならば、家繁盛を願うならばです、ね、本気で私は忠実にならしてもらう、仕事に忠実にならしてもらう、ね、無駄使いはしないというようなです、私はおかげをいただかなければいけない。
ね、それこそ身を削ってでも、いうなら、このくらいなことは自分にはもう当たり前、例えば千円の給料を取っておる人がです、千円を使うと言うことは、たいしたこれは贅沢じゃない、けれどもそれをです、例えば身を削ってでも、八百円にしてね、二百円を貯蓄にしていく、ご用につこうていくというような、私は生き方を身にほんとに付けなければいけない。
ね、千円の給料しかとっていない者が、千百円の、例えば生活するようなことは絶対あってはならないというようなですね、ものを私は貫ぬかなければならない。
神を拝むものはといいよるが、信心をさせて頂くものはです、このみ教えを持って一つ、自分の信心の筋金にして、おかげを頂きたいと一心を立てたならば、そのくらいな一心を立て貫かなければ、いけないとおもうです。
ね、ですから、なら五項目と、それはどれもこれもということはでけんなら、自分に今一番欠けておるもの、必要と思うもの、ね、だからどの一言でも良いから本気で一つ、一心を貫かせていただいて、いわゆる神様の心の、を貫くと申します、ね、ただ何とはなしに金光様の信心を頂いておると言ったような、ぼやっとしたものではなくてです、ね、言うならば蛍の光をそこに千匹集めたところで、大したことはない。
ね、ぼんやりと明るくなるけれどもです、ね、一つの一枚の紙でも貫くことはできない。
ね、一枚の紙の裏表を貫く、それは、線香の火のような、一つの火であってもです、ね、紙の裏表を貫くことができる。
だからいうならば、あっつと言ったような熱情がです、そこに懸けられなければいけない。だからあれもこれもと言うわけには、中々できませんからです、まず一言でもこれはと言うものを身に付けて、なるほどそれによって、徳を受け、それによって力を受けることが分かったらです、もうあれもこれもそう貫かなければおられないことに段々なってくると私は思うです。
ね、今日はそこんところをです、あの頂いて神様に一心が届くような信心を、ね、どんなに良い信心をしておってもね、この貫かないと言う、貫けないと言うことでは、ほんとのおかげにならないように思います。
これだけはと、心に決めさせてもらう、しかもこれだけはと言うのがです、絶対のものだと、例えば言う、その次に、神は、心は神信心の定規じゃによってというみ教えがありますようにです、私どもは教祖、生神金光大神さまの生きられ方というものを、ね、まともなものとして頂いて、それに合わせていく生き方をもってです、ね、間違いのない生き方と定めなければなりません。
それを、例えばあれもこれもと言うわけには参りませんでも、このことだけは、貫き通させて頂いた、ね、そしてかくおかげを受けたと言うおかげを表していき、ね、そして例えて申しますと最近、なら、五項目といわれる、ね、その一言でもです、ね、一言ではない、それが全部自分の身に付いて参りましたら、いよいよ家繁盛、子孫繁盛、ね、親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と言ったようなおかげになっていくことを、私は信じます。ね、貫き通させていただくという信心を身に付けたいものだと思うですね。どうぞ。